<チャンピオン増岡 浩さんと対談更新日時:03/04/07





ボクは、20年ほど前に自動車の免許を取得しましたが 以来今日まで無事故無違反を
誇る優秀ドライバーです。しかし それもその筈です。

未だに運転に自信が無く だから「 仕事は電車,遊びはタクシー 」をモットーに
してますから 要するに事故も違反も起こしようが無いというワケです。


 そんなボクが先日( 3/29 )、パリ・ダカール・ラリーで2連覇を達成した
ラリー・ドライバーのチャンピオン・増岡 浩さんと対談しました。
この対談は「 釣りキチ三平/CLASSIC 」( 5/20より月2回刊 )の創刊を
記念して企画されたもので その模様は創刊号から2回に渡って
掲載されますので、ご覧ください。

 とにかく車の好きではない人間とチャンピオン・ドライバーとの対談でしたから 
咬み合わないところもありましたが ボクにとっては結構新鮮な一時でした。

例えば それまでボクは車のレースというものに素朴な疑問を一つ抱いていました。
F1レースですが 何故アイルトン・セナがあれ程までに優勝を重ね得たのか
・・・・・という疑問でした。

つまりボクは、ドライバーのテクニックよりも車の性能が劣っているのでは・・・と考えたのです。
その劣っている性能をドライバーのテクニックでカヴァーしているというのなら
セナの優勝も理解出来るのです。

 増岡さんは、そこをズバリと答えてくれました。

『 人間のテクニックに応えられる車は未だ造られていません。
テクニックの全てを傾注したら車はたちまち悲鳴を上げてしまいます。
その悲鳴を上げさせないように、騙しながら運転しているのです。
もし我が社で、悲鳴を上げない車が開発されたなら これは自動車の
革命でしょう。とにかく、そんな事を夢見ながら車の開発に当たっていますが
パリ・ダカの連覇を5に伸ばそうと頑張っています。』


と 自信の程を覗かせていました。






矛盾・・・・・更新日時:03/04/25





腰にかかえたバクダンを鎮めようと せっせとプールに通い、水中ウォークに余念がない。
日々健康増進に努めているというわけだ。おかげで体重は五キロも減った。
なんとフットワークの軽快なことか。

しかし、ジムを出たとたんにするのは・・・・一服のタバコだ。
汗を流した後のタバコほどうまいものはない。

でも、コレって大きな矛盾だろう。
体を鍛えながらタバコを吸ってるわけだから。

・・・とは言え、この矛盾がたまらない快感なんだよなア・・・ 

人生にムダはつきものなんだ。ムダのない人生なんて、つまらないではないか。





SARSに想う更新日時:03/05/12





今日、TVや新聞紙上で連日話題になっているのが新型肺炎『 SARS 』である。
WHOの発表によれば、世界各国地域の感染者数が7千人を超え、
これによる死亡者数もついに5百人を大幅に突破したという。
 
この情報を聞く度にボクの脳裏をよぎるのは、ボクが小学校四年生だった
昭和24年秋から25年冬にかけて日本列島に猛威をふるった法定伝染病『 百日咳 』を思い出す。

 『 百日咳 』はその名が示すように、かかったら百日間も咳が止まらないという
強裂なカゼだった。とにかう一旦咳込んだら息を吸うヒマがないほどの咳を連発し、
やっと咳の発作から解放されると、まるで虎落笛( もがりぶえ )のような音を発した。
ノドの気管が炎症を起して細くなっているので、
息を吸い込もうとすると ピィーッと笛のような音を発するのだ。

こんな発作が一日に数十回も起きた。だから感染者はたちまち体力を失い、死亡者が続出した。

 当時の統計によれば、この年日本列島に猛威をふるった『 百日咳 』の
感染者数は16,110人を数え、うち死亡者数は9,105人を記録したという。

 記録的に見れば『 SARS 』は『 百日咳 』の比ではない。
もちろん当時の日本は戦後間もない時代で、栄養面で国民の体力が
著しく低下していたことと、医薬品や医療面でも整っていなかったことが
大きな要因だろう。

 しかし、真偽のほどは定かではないが『 SARS 』は子供には感染しないという。

それに比べて『 百日咳 』の感染者は圧倒的に体力の弱い幼児だったことが、
これほどの死亡者を出す要因だった。

その死亡者の一人がボクの弟だった。

 夜な夜な襲い来る咳に抗し切れず、三歳という幼い瞳が落ちた瞬間を、
今日でも忘れることはない。

このエピソードは、ボクの作品「オーイ!!やまびこ」の第17話『 百日咳 』を
お読みいただければうれしく存じます。






ついに創刊「釣りキチ三平/CLASSIC」更新日時:03/05/14





5月13日夜・・・。酔って、すっかりマヌケ面で祝杯を上げているのが
ボク(矢口)と川鍋捷夫編集部長である。

待望の『 釣りキチ三平/CLASSIC 』創刊号の見本が出来てきたのだ。
もちろんこの本の発売日は5月20日だから、それまでは店頭にでることはないシロモノだ。
 

それにしても川鍋さんはすごい編集者だ。
講談社では『 釣りキチ三平/CLASSIC 』の創刊に向けて、自然派生的に
21名のプロジェクトチームが出来たというが、その中心が川鍋さんだった。

そして、この日の乾杯はボクと川鍋さんの約束のもとに実現したものだ。
お酒は宮崎県の銘焼酎『 百年の孤独 』。
それをボクが調達し、「 創刊号が出来たら乾杯しよう 」という約束だった。

それが、見事実現したのだ。
 

あとは、読者の皆さんが買って喜んでくれるだけだ。





小泉 泰 先生との別れによせて更新日時:03/06/15





★左が矢口★   ★右が小泉先生★

小泉先生とボクとの出会いは 昭和二十七年( 一九五二 )四月のことでした。
この年ボクは中学一年生に進級したのですが、ボクらの担任として迎えてくれたのが
小泉先生でした。


以来、中学生活の三年間、ボクらは小泉先生を担任と仰ぎ、苦楽を共にして来ました。

小泉先生の人間像については拙著「 蛍雪時代 」にくわしく触れていますので 
ご覧いただければ幸いと存じます。


とにかくエネルギッシュでバイタリティに富んだ熱血先生でした。
ボクはもうイッペンでシビれてしまい、ひたすら先生をコピーする日々でした。
それほどボクは小泉先生に傾倒しました。


なかでも生涯忘れ得ぬ一件があります。ボクの高校進学にまつわるエピソードです。

わが家は山間の貧しい農家でした。だからボクは「 進学 」はあきらめて、
必然的に「 就職 」の道を選び、二学期の終る頃には

浅草のブラシ工場への就職が内定していました。
中学生は「 金の卵 」ともてはやされ、就職列車に揺られて「 ああ上野駅 」の時代でした。

二学期の終り頃の秋田は一メートル余りもの積雪に見舞われます。
その日、就職組のボクには進学組のように受験を控えての補習授業もなく、
早めの下校となり夜を迎えていました。
 

「 こんばんは・・・!!」

雪深いわが家の玄関に聞き覚えのある声でした。
まさかと思って戸を開けると、頭に白い雪帽子を乗せた小泉先生が立っていました。
学校からわが家までは片道八キロの雪道です。

小泉先生はそれをかき分けての訪問でした。


「 お父さんとお母さんはいる・・・?」

幸いこの夜は父も母もいました。先生はつかつかと部屋に上がるなり、
時を忘れての膝詰め談判に入りました。


「息子さんを高校に進学させて欲しい」
と。

父は経済的理由を楯にガンとして受けつけません。


「 でもお父さん、あなたの息子さんは頭のいい、よく出来る子です。

こんな子を中学だけで終らせてしまうのは、あまりにもったいない。
もう三年間、頑張って高校に入れてやって下さい 」 

小泉先生は

= 教科学習を教えることのみが教師の仕事ではない。
生徒一人一人の

悩みや苦しみを分かちあい、楽しみを共有することこそが真の教育だ =


という理念の持ち主でした。


この夜のわが家への訪問は、誰に頼まれたものでもなく、まさにその理念に従ったものでした。
だから、熱弁をふるって父を説得する姿に、ボクの胸は熱くなり、涙がとめどなく溢れました。


小泉先生の説得は夜半に及びました。
結果ボクは急転直下「 進学 」へと大逆転したのでした。

 人生には多くの人との出会いがあります。
そして、その人生の節目節目に大きく作用する人との出会いがいくつかあると言われています。

ボクの中学時代に小泉先生との出会いがなかったなら、
なかんずくあの雪の夜がなかったならば、ボクは一体どんな人生を歩んでいたことだろう。

その意味でも「 マンガ家・矢口高雄 」の誕生に最も大きな作用を
もたらしたのは「 小泉先生 」だとボクは思っています。


 「 先生、ありがとうございました」

-合掌-





何ということだ・・・・・!!  更新日時:03/07/18





またまた児童による不可解な事件が立て続けに起きてしまった。
 
長崎の園児を殺害したとされる中学一年生の男子の事件と、
赤坂のマンションに監禁された稲城市の小学六年生の少女四名にかかわる事件である。

 この二つの事件には、「 加害者と被害者 」の違いはあれ、根底には共通したものがある。

 どちらも発達途上の「 性 」に深く根ざしているからだ。

 「 性 」の問題は、健全でありさえすれば誰もがその成長と相まって自然に
乗り越えられるはずのものである。


 長崎の中学一年生は、そのバランスが崩れた途上の
病的な行動だったろう。

 だが、稲城市の四名の少女たちの件は、事件としては被害者ではあるが、
そのプロセスはあまりに大人の世界をナメた、軽率な行動だったという
誹りはまぬがれないだろう。

 とにかく、ボクが長年封印していた「 釣りキチ三平 」を再び描こうと思い
立った動機の一つが


『 近頃あまりにも青少年犯罪が若年化している 』

ことに対する危倶だった。

 そんな危倶が現実のものとなって、吐き気がするほどの悪寒を覚える。

 ますます責任を持って「 平成版 」を描かなければなるまい。

 人は様々の体験をし、それによって人格が形成されて行くものだが、
殺人と交通事故の
加害者という体験だけはしたくないとボクはいつも思っている。





キャラクターが変化する理由(ワケ)・・・・更新日時:03/08/01





「釣りキチ三平/CLASSIC」も、あれよあれよという間にもうNO.6を数えた。

 時の流れは本当に早いものだ。

 ところで、もちろんそれは最初からわかってはいたことだが、
こういう編成を
すると格段に目につくのは初期の頃の絵の下手さ加減だ。
キャラクターの顔などはまるで別人と思えるほどに変化しているし、
背景や構成構図等もしかりである。


 だが、別の見方をすればそれは「矢口高雄」が歳月を重ねるなかで次第に
上手くなっているという証拠でもあり、絵は毎に描いていれば上手くなる、

という証明でもあるだろう。

 キャラクターの変化という観点からみてもそれは言える。
マンガ家が一本の連載作品をスタートさせるときに考えるのは、
ちょっと
すましたキメの表情と、喜、怒、哀、楽の五つのパターンである。

だが、ストーリーが進み、そのキャラクターが様々な試練に出会うごとに、

その五つのパターンでは足りなくなってしまう。
悲しいのにヘラヘラ笑って
いるとか、逃げ出したいほど怖いのに強がってる等々、
喜怒哀楽の間の
微妙な表情が必要になってくる。

 つまり、そうした体験を経ることによって、次第にキャラクターが変化し
やがて固定されて行くということである。

 例えば、谷地坊主や、カナダのサーモンダービー編に登場するアラスカグリズリーのような
大男と対決するときには、なるべくその対比を
デフォルメして
三平くんは小柄に可愛いくなるように演出するし、
逆にチビの
正治が相手だとちょっと大人びた三平くんになる。

 魚紳の場合がいい例だ。

「三日月湖の野鯉編」に初登場したときは、ボクのイメージとしてはウイスキーを
ラッパ飲みする、やさぐれた旅の風来坊釣り師という設定だった。

しかし、そのクールなところが魅力だったのか女子中学生や高校生の間で
人気となり、ファンレターが殺到したため、ボクのペンもつい調子に乗って、
次第に足が長くなり、よりクールなハンサムとなって行った。

 とにかく、絵は毎日描けば上手くなるものだし、それ以上に伸びなくなったら
マンガ家としては限界ということだろう。






台風・・・・更新日時:03/08/09





こんな格好するからギックリ腰になるんだよ!

現在、このコラムを書いている間も、テレビでは台風10号の行方が刻々と報じられている。

水俣で大規模な土石流の被害があったのは、ついこないだのことだから、
『沖縄や九州って台風銀座だなァ・・・・』ってつくづく思う。

しかし、この台風が実は特異な人間性を育てているのでは・・・・・と、ボクは常々考えて来た。 

特異な人間性とは芸能人である。

考えてごらん、沖縄や九州出身ではかつて「フィンガー5」に始まり、
安室奈美恵、マックス、スピード、ビギン、そして今日大人気のDA PUMP
ちょっと変ったところでは超腹話術師のいっこく堂がいる。

一方九州出身の芸能人と来たらもう数え切れない。
松田聖子、藤井フミヤ(元・チェッカーズ)、井上陽水、小柳ルミ子、
水前寺清子、村田英雄、にしきのあきら、甲斐よしひろ、財津和夫、
高倉健、タモリ等など、枚挙にいとまがない。

何故こうまで優れた芸能人を、この地方が輩出するのだろう。
それを解くキーワードが「台風」ではないかとボクはずーっと考えて来た。
まず台風は、とにかく窓なんかに板張りをし、一晩ジッとガマンしていれば
通り過ぎて行く。台風一過の後はウソのような晴れやかな世界だ。



こんな体験を子どもの頃から毎年のように繰り返ししていると、
「明日は明日の風が吹く」という気質が育くまれ、海のものとも山のものとも
わからない芸能界に踏み込むバネになっているのではないだろうか。

それを示す証拠がある。

それは東北地方などの「雪国」出身の芸能人が実に少ないことである。
これをボクは「雪型の気質」と呼んでいる。台風は一晩ガマンすれば通り過ぎてくれるが、
雪は一冬を耐え忍ばないと春が巡ってこない。

だから、雪国の人たちは何事につけても慎重で、石橋を叩いても渡らない
性格が構築されてしまう。とてもじゃないけど、海のものとも山のものとも
知れない世界に踏み込もうとする勇気などわいて来ない、と言えるだろう。

ボクは雪国秋田のなかでもひどい豪雪地帯に生まれた。
だから何かにつけて慎重だったのだろう。

芸能界ではなかったが、マンガ家としてデビューしたのが30才という遅咲きだった。






Copyright Yaguchi Production Allrights Reserved 2003