矢口高雄の独り言


「くろかみ」   更新日時:04/05/08



最近、やたらと目覚めが早い。老境に入ったということだろう。
いつの頃からかお酒の力を借りて眠るのが習慣になった。

仕事がストイックなだけに、お酒でリラックスする要領を得たということだ。
・・・が、その作用が功を奏してか、たちまち熟睡に達し、結果目覚めが早くなってしまうのだろう。

つい先日、といってもその日は仕事の休み日に当っていたのだが、
早目にリラックスタイムに入ったこともあり、酔いも手伝って午後の十時過ぎには
轟沈していた。轟沈の寸前に「ヤバイ!」と思った。・・・が、後の祭りだった。
案の定、たちまち目覚めが訪れた。
時計を見ると、午前0時を近し回った頃だった。

そんなことを繰り返す昨今だから、近頃のボクはあわてない。
いまさら眠ろうと焦ったところで眠れるものでもない。
だからすぐテレビをつける。
深夜放送をゆったりと観ながら、眠くなるまでボンヤリとした時を過ごす。

慣れてくると、これも悪くはない。思わぬ見つけものをすることもある。
教育チャンネルで高校の数学をやっていたりすると、すっかり高校生に戻った気分で
「 y = f (x)」などという関数問題に必死に取り組んでいる。

そんなことをしているうちに、また自然に眠くなる。
それが「ズームインスーパー」の始まる頃であったり、時にはNHKの七時の「おはよう日本」で
あったりしてもかまわない。心のおもむくままに眠るのだ。

ここでつい先日にもどろう。なにしろこの日目覚めたのは午前0時を少し回ったぐらいだったので
当然夜明けまでにはかなりの間があった。だから、ただちにテレビをつけた。

NHKのBS-1だった。アメリカからのゴルフ中継で、日本の田中秀道プロが"-14"の
好スコアで四位タイとなっていた。明日が決勝ラウンドだと言う。
眠さはすっかり吹き飛んで、思わず田中プロに加勢していた。

やがてその中継も終り、画面は次の番組へと切り代わった。
その番組のタイトルは覚えていない。・・・が、日本のある年代の世相を切り撮ったシリーズで
以前にも目覚めタイムに観たことがあった。
アナウンサーのナレーションは一切ない。バックミュージックとして、
その時代に流行った唄や曲が流れるだけ。

例えばダッコちゃんやフラフープやミニスカートが流行した時代であれば、
その時代の老若男女の動行を淡々と記録した画面が、様々な角度から映し出されて行く。
懐かしさも湧いて来る。こんな時代もあって、
今日があるんだなァ・・・・と、しばし感慨にふける。

この日の放送は、ボク流のタイトルをつけるとしたら「1990年の日本の若者たち」だった。

わずか14年前の日本である。服装も色彩も今日とはそんなには変っていなかった。
紺の制服に白いソックスの女学生。肩パットをしたスーツ姿のOLたち。
原宿や渋谷の人混み。どれ一つとして今日とほとんど変らない世相だった。

しかし、たった一つ大きな異変を発見して思わずタメ息をついた。
それは、その映像のなかに「茶髪」の若者を一人として発見することがなかったことだ。

茶髪を見慣れた昨今、ボクのなかにはそれに対する偏見はないものと思っていた。
だが、わずか14年前の日本の世相に妙な清々しさを感じていた。
内面はさて置くとしても、黒髪の若者たちには、今日には感じられない純粋さや、
清純さを感じたことは確かだった。

日本人には、やはり黒髪が良く似合う・・・と言ったらボクは古い人間だと思われるだろうか。







「元気の出る対談」を振り返って・・・   更新日時:04/08/06



「釣りキチ三平/CLASSIC」の巻頭に「元気の出る対談」というページがある。

創刊(2003/5月)を記念して企画されたページで、毎月お一人のゲストをお迎えし、
ボクとの対談を前後編2回に分けて掲載している。

つまり、近刊31号で1年4ヶ月を数え、ご登場いただいたゲストが16名にのぼる。
その方々を列記(敬称略)してみよう。

@ 増岡 浩(パリダカラリー2連覇)
A 薬丸裕英(元・シブがき隊。現在「花まるマーケット」の司会)
B 清水国明(元・あのねのね。アウトドア)
C 宮沢和史(THE BOOMのヴォーカル)
D ザ・グレート・サスケ(みちのくプロレス。岩手県議会議員)
E みなみやんぼう(シンガーソングライター)
F 田中康夫(小説家。長野県知事)
G 片山右京(F1レーサー)
H 水島新司(漫画家)
I 井上康生(シドニー五輪柔道金メダリスト)
J 舞の海 秀平(NHK大相撲解説者)
K 増岡 浩(創刊号に続き2回目)
L 林家木久蔵(落語家)
M 三木たかし(作曲家)
N 秋元 治(漫画家)
O 新井敏弘(WRCドライバー)

「元気の出る対談」の始まった頭初は、ボクも随分不慣れで、しどろもどろしたものだが
さすがにこれだけのゲストを迎えて一年半近くも対談していると、近頃ではだいぶ心にゆとりが
生じて来ている。それにしても振り返って、なんと壮々たるゲストと対談したことだろう。

しかし、対談を繰り返しながら、内心残念に思うことが一つあった。
それは、女性のゲストに一人として恵まれなかったことである。

その点は、もちろん担当編集者には口が酸っぱくなる程申出てはいたのだが、
ラチが明かないまま時だけがいたずらに過ぎた。

が、待てば海路の日和りありである。ついにその日が来た。

7月22日、彼女はこの日来年度のカレンダー撮影のため目黒雅叙園にいた。

つまりボクはそこへ押しかけて対談となったのだが、
撮影が終った彼女はカレンダー姿そのままにいそいそと現われた。

妖艶な和服姿の美人歌手「藤あや子」さんだった。

対談はCLASSIC/32号(9/5発売)と33号(9/20発売)に掲載されます。
是非本誌でお読み下さい。尚、今後予定されているゲストは
中山雅史さん(サッカー選手)、氷川きよしさん(歌手)、そして加山雄三さん(歌手、俳優)・・・・
と目白押しです。ご期待下さい。






>1グロスのGペン U   更新日時:04/09/20



今年(2004)の3月5日だったと思うが、ボクはこのコラム欄に
「1グロスのGペン」と題する一文を発表した。

そのコラムを書こうと思い立った動機は、ちょうどその日(04/3/4)にプロマンガ家となって以来
何グロス目かのペン先を使い終え、新しい1グロスの封を切ったばかりだったからだ。



マンガ家がどれほどのペン先を使用するかは、もちろん描く原稿枚数に比例することは
言うまでもない。多作なマンガ家であれば当然多く使うだろうし、筆圧をあまりかけない
絵柄のマンガ家はペンの摩滅も少ないだろう。

その点でのボクはと言えば比較的緻密な絵柄だけにペン数は多い方だが、
決して多作ではない。しかし、自分の仕事の勢いや、流れを見るには
格好のバロメーターになるのではないかと考えて、1グロスの封を切る度に、
その箱の裏側に使用開始と終了の日付けを記して来た。

95/09/17〜96/08/26
97/07/03〜98/05/22
00/06/12〜01/11/03
02/11/05〜04/03/04


Kこの日付でわかることは、ここ10年ぐらいのボクは1グロスを使い切るのにほぼ1年を
要していることになる。・・・が、なかには1年半や2年近くも要している時期もあり、
マンガ家生活の浮沈を見る思いである。
そして、この「1グロスのGペン」のコラムの締めくくりとしてボクは次のように記している。

・・・・さて、そんなわけで新しいグロスの封を切ったのだが、日付けを記しながら
これまでに味わったことのない思いにかられた。
果たして次のグロスの封が切れるだろうか・・・・という思いである。
つまり、ボクは今年の誕生日(10/28)を迎えると65歳を数える。
せめて、もう1グロスは封を切りたいものだ・・・・・・と。

ところでこのコラムだが、「最低月一本は必ず書いてネ!!」と、コラム担当の娘には
毎度しつこく催促されている。その都度首をタテに振ってはいるのだが、
なかなかそうはいかないのが現実だ。

自分ではぐうたらではない積りだが、長年身にしみついたマンガ家の習性とでも
いうものだろうか、締切りがないとズルズル先送りしてしまう。

「1グロスのGペン」も、そんな日々のなかで少しは娘の催促に応えようと、
ちょっと感傷的な気分に浸りながら書いて渡した原稿だった。が、それを読みながら
必死にキーボードを叩く娘の横顔に、いつにない寂しそうな影が宿っていて、
ハッとした。常に毅然としているはずの父の内面をのぞいた娘の、
正直な心情だったのだろう。書くべきコラムではなかった、と胸が痛んだ。



「1グロスのGペン U」を書こうと思ったのは、そんな娘に対するお詫びの気持ちからである。
つまり、あの日から6ヶ月余りを経たつい昨日(9/19)、なんと新たなグロスの封を切ったのだ。

自分としては予想外に早い開封で驚いている。オレもまだまだかも知れない・・・・・。





「元気の出る対談」で拾った名言   更新日時:04/10/22





その1

「相撲の世界は平等だ。プロ野球選手などと違って
相撲協会に所属する全員が毎場所出場出来る仕組みになっている。
つまり、全員にチャンスがあるというわけだ。」 舞の海秀平

なるほどと思った。・・・・と同時にいくつもの疑問もかけめぐった。
果してスポーツの世界に真の意味の
"平等"って存在するだろうか。

野球におけるボール、ストライクの判定。
体操競技における採点。
向い風が飛距離に大きく作用するジャンプ競技。


どれを取ってみても
"平等"とは言えないものが存在する様に思えてならない。
強いて限りなく平等に近いものを挙げるとしたら、マラソン競技だろう。
あれだけの長距離を走るわけだから、もうこれは
"限りなく平等"と言える、とボクは思うのだが・・・・・。


その2

「当り前のことを当り前に出来る選手が名選手である」 ゴン・中山雅史

けだし名言である。一つだけボクなりのコメントを加えると、
そんな選手のプレイは決してファインプレイには見えない。
そこがすごいことだとボクは思う。


その3

「うまい物は迷彩をほどこしていて、人間の眼にはなかなか見つかりにくい」 
石塚英彦(ホンジャマカ)

これは名言というよりも「迷言」かも知れない。
石塚氏がこの言にたどりついたのは、テレビ番組ロケの苦労からだったと言う。
つまり、その一つが千倉(千葉県)の海にもぐってのアワビ漁。
そしてもう一つは長野県での松茸狩り。
「アワビも松茸も極上の食材だけど、どちらもホントに見つけにくかった・・・・」が、
石塚氏の弁だった。





あっ、今日はオレの誕生日だった!!   更新日時:04/10/29





10月28日、つつがなく65回目の誕生日を迎えました。

友人知人や多くのファンの方々から、お花や祝電、そしてネットを通じてたくさんのお祝いの
メッセージをいただきました。心よりお礼申し上げます。

当日ボクは茨城県、鹿島のホテルに前泊していました。
「元気の出る対談」の20回目で、バスプロの並木敏成氏との対談のためでした。

対談は並木プロのボートで霞ヶ浦に乗り出し、ひとしきりバスフィッシングを楽しんだ後、
氏のスポンサーであるプロショップに立ち寄り、グラビア用の数々のショットを撮影。
再びホテルに帰り昼食をはさんで、いよいよ対談となりました。



対談の内容はいずれ「CLASSIC」に掲載されますから、乞う御期待というところですが、
この対談の恒例となっているのは、対談相手にボクから心ばかりの色紙を
プレゼントするというコーナーがあります。

その色紙はいつもなら対談の前日に自宅で描いて持参するのですが、
この日はどうしても時間がとれず、当日並木氏の目前で描いて差し上げるという、
誠の手際の悪い運びになってしまいました。

しかし、そんな手際の悪さが、逆に並木氏にとっては目の前で自分宛の色紙が
描かれて行く過程をつぶさに見る機会となったわけで、感動の面持ちでした。

が、その顔を見てボクは初めて気付いたのです。
つまり、色紙を描き終え、サインを入れ日付を記そうとしたとたん
「あっ、そうだ!今日はオレの誕生日だった!!」と、思わず声を発していたのです。

記念すべき誕生日の日付の入った色紙を手にした並木氏は二重の感激にひたっていました。






「エッセイスト」更新日時:04/12/01



ボクのプロフィールには「マンガ家」の他にもう一つ「エッセイスト」なる肩書きが
付けられて紹介されているケースがある。

これは、おそらくボクがこれまでにマンガ作品執筆のかたわら、結構精力的に
多くのエッセイを発表して来たことによるものだろう。
もとよりボクは文章の専門家ではないから「エッセイスト」なる肩書きには
いささか面映いものがある。・・・・と言っても「マンガ」そのものもこれと言った専門の教育を
受けたわけではないし、師について学んだわけでもない。

全くの我流でやって来ただけのことである。しかし、我流とは言っても、
それが成立しているということは、作品創りの鉄則というものがあるとすれば、
それに叶っていると言うことになるだろう。



それはさて置き「エッセイスト」である。
いつからボクにそんな肩書きが付くようになったのか不明だ。
ただ、かなり以前の話だが、こんなことがあった。

書き下ろしエッセイ集「ボクの学校は山と川」(初版1987年9月)が出版されてほどない頃、
とある著名な文筆家から大変お褒めのおハガキを頂戴した。

「この度のエッセイ集は実に素晴らしかったので、
本年度の日本エッセイストクラブ賞に推薦したいと思っている」


これには本当に驚いた。・・・と同時に世間には、ボクごときの拙文を読んで下さっている
御仁もおられるんだなァ・・・・と感慨にひたったものだった。
が、御仁の推薦のお言葉もむなしく、エッセイストクラブ賞の栄に浴することはなかった。

だからと言って、ボクに落胆などありはしなかった。
別に文章の専門家でもないわけで・・・・・・。



だが、事態は大きく変った。この「ボクの学校は山と川」が
翌年の毎日新聞社主催「夏休み読書感想文コンクール」高校の部の課題図書に指定され、
大増刷という事態に発展したのだ。

さらに加えて、この中の数点が中学の国語、高校の英語の他、小、中学校の
道徳教育の福読本に次々と採択されたのだ。

そんな1992年、月刊「宝石」より短いエッセイの依頼があった。
「テーマはご自由に・・・・・・」という依頼だったので気軽に引き受けた。
「テンプラ校門」と題する一文を書いた。たわいのない一文だったので、
発表誌をチラッと見ただけで、いつしか書いたことさえ忘れていた。

青天の霹靂(へきれき)とは、得てしてこんな時におこるのだろう。
なんと、この一文がこの年の日本エッセイストクラブ編の
「92年版ベストエッセイ集」(文芸春秋)に集録されたのだ。

ボクのプロフィールに「エッセイスト」なる肩書きが付記されるようになったのは、
この頃からだったと思う。






「一人よがり」更新日時:04/12/01



そんな肩書きがモノを言ったのか、ボクはあるエッセイコンテストの
審査員をおおせつかっている。
JR東日本とサンケイ新聞社が主催する
JR東日本で行く感動の旅紀行文コンテスト」で、今年で11回を数える。
その審査委員会で毎回のように繰り返される選評がある。

「一人よがり」
である。



「YOSUI TRIBUTE」を聴きながら踊る矢口。おいおい!!腰は大丈夫か?!


「一人よがり」を広辞苑で引くと
- 自分一人だけで良いと思って、他人の説を顧みないこと - ・・・・とある。
文章を書く時最も気を付けなければならないのは
コレである。


一例だが「すごく感動した」という応募作があるとしよう。
だが読んでみると何故感動したのかさっぱり伝わって来ない・・・という例が実に多いのだ。
自分の体験を文章に綴っているわけだから、その場の情景や、その時の感情は、
その当人が一番良く知っているはずである。
なのに読者には伝わって来ないのは、自分の知っていることは他人にも
わかるだろうと錯覚して書いているからにほかならない。

それが
「一人よがり」というものだろう。



更に踊りがエキサイト!!もう、どうにもト・マ・ラ・ナ・イ〜!!

日記ならばそれでいいだろう。しかし、少なくともコンテストに応募しようとして書く一文だから、
読者に読んでもらうということを十分意識して書く必要がある。
自分の胸の内を100パーセント相手に伝えようと細心の配慮をして書く必要がある。

審査員の一人に小説家の赤瀬川隼人氏がいる。
そこで氏に「一人よがり」を防ぐコツを聞いてみた。赤瀬川氏はひとしきり腕を組んで
考えていたが、腕をほどくやボツリと言った。

「ないネ・・・・・・」

「それは文章を書く人間の資質であり、センスなんだヨ」
・・・・・と。

だがボクには言下にそう言ってのける自信はない。
・・・が、文章に限らずマンガにもそれは言えそうだ。



何故か異常なくらい陽気な矢口。しばらく踊ってました(笑)。

もしかしたら読者に100パーセントわかるように細心の配慮する能力が、
モノ書きのセンスなのかも知れない。





「シルバーシート」更新日時:04/12/30



マンガ家は、とにかく締切りに追いまくられるのが日常的な職業なので、
めったに同業者と会う機会がない。

しかし、毎年の年の瀬にプロのマンガ家が一堂に会する2大イベントがある。
小学館と講談社が行う忘年パーティがそれで、今年は小学館が12月16日、
講談社が12月27日、いずれも「帝国ホテル」でにぎやかに行われた。

ボクが初めてそのパーティに招かれたのは、デビューした昭和45年の暮れだった。
立錐の余地もなく埋めつくされた会場には6〜7百人ぐらいの参加者がいただろうか。

もちろんボクはデビューしたての新人だから、会場にはボクを知る人は
担当編集者以外はいないわけだが、逆にボク側から見れば知ってる顔ばかりで、
興奮の連続だった。

石森章太郎、赤塚不二夫、藤子不二雄、ちばてつや、さいとう・たかを、水島新司、
つのだじろう、松本零士・・・
等々の人気マンガ家の顔が輝やいていた。

・・・と、会場の入口あたりがにわかにざわめいた。
見ると、その一角がまるでスポットライトを浴びた様に光り輝やいていた。

手塚先生の入場だった。

遠い少年の日にシビれ、あこがれた手塚先生のナマの姿を見たのは、
これが初めてだった。思わずかけ寄っていた。もちろん握手を求めたり、
会話を交すほどずうずうしいボクではなかった。
ただ背後にピッタリ寄り添い、どんな声で、どんな会話をしているのかを
耳をダンボにして聞くだけで充分だった。

思えば、あれから34年の歳月が流れた。

12年2ヶ月の銀行マン生活を経て、遅ればせながら出て来たボクも
どうにか仲間に加えてもらい、多くの知己を得た。
しかしこの頃そうしたマンガ界に不思議な現象が起きている。

劇画の御大さいとう・たかを氏の言葉を借りれば
「近頃、若いマンガ家の顔も名前もさっぱりわからん」・・・・である。

当時に比べてマンガ誌の数も増え、当然マンガ家の人数も増えているはずなのに、
マンガ家の顔と名前が全く見えない時代になってしまった、というのである。
これにはボクも全く同感である。

以前ならば、例えばボクが手塚先生のうしろに金魚のフンのようにつきまとったように、
人気マンガ家のまわりを新人マンガ家がとり囲むという現象があったが、
近頃の若いマンガ家にはそれがないのだ。

この現象は、おそらくマンガ家の専属制によるものだろう。

ボクらの時代はいわゆるフリーで、どこの出版社の出版物でも自由に描けた。
だが、今日ではほとんどのマンガ家が出版社と専属契約を結んでいて、
その出版社の出版物以外には描くことが出来ないというシステムが確立している。
その功罪はここではさて置くとしても、そうしたシステムの元では
マンガ家同志の交流はあまり歓迎されないという風潮もあるのかも知れない。

とにかく、そんなこともあって近年のパーティでは、若いマンガ家たちの顔も名前も
わからないものだから、必然的に知ってる顔同志が一角に寄り合ってしまう。
その面々はフリー時代の人気マンガ家たちであり、大ベテランたちがひっそり肩を
寄せ合っているという構図になってしまった。
寂しいという表現もあるが、時代の流れと言うしかないだろう。

そんな時代の流れを象徴しているのが、さいとう・たかを氏の発案で
設けられた
「シルバーシート」だろう。

2時間余りの立食パーティに堪えられないベテランマンガ家のために、
一角のテーブルに椅子を配したのだ。

かくして今年のシルバーシートに寄り添ったメンバーは、
藤子不二雄・A氏(70)、さいとう・たかを氏(68)、つのだじろう氏(68)、
ちばてつや氏(65)、そしてボク(65)だった。ハハハハ・・・・

そんなボクも来年はマンガ家生活35周年を迎える。
一つの通追点と考えたいところだが、充実した35年目を意欲的に乗り切りたいと思ってる。






Copyright 2004 Yaguchi Production. Allrights Reserved.