矢口高雄の独り言

「大震災と奥の細道」  更新日時:11/05/23



俳聖・松尾芭蕉が奥の細道の旅に出発したのは元禄2年(1689年)の陰暦3月27日である。
今日の太陽暦に換算すると5月のなかば頃と考えていいだろう。

「風流の初めや奥の田植えうた」

この句は福島県の白河越えをしたあたりでしたためた句と言われているから、
奥の細道に踏み込んだ頃は田植えどきだったことが分かる。

芭蕉はその足でその後福島、仙台、塩釜、松島、石巻へと進み、岩手県の平泉(中尊寺)に
至るのだが、今日ではそのどこもが大震災の被災地である。
つまり芭蕉が今日同じ道を歩いたならば、どんな句を詠むだろう。
およそ風流とは縁遠いガレキの山と、田植えも出来ない奥の細道である。

芭蕉の風雅の境地が今日の細道の惨状をどう表現するのが見てみたい気もしなくはないが、
おそらく「3.11」の大震災がその時代に起きていたなら、
まず奥の細道紀行は中止され、後世にの遺る数々の名句もまた詠まれることはなかっただろう。

だが俳聖のことだから、もしかしたら道程を変更しても強行したかも知れない。
そう考えると、「奥の細道」は全く別の意味を持つ著作になっただろう。
ただし芭蕉の時代には原発はなかったので、放射線のベクレルの恐怖にさらされる旅には
ならなかったことは確かである。

ついでに言えば、芭蕉の奥の細道の最北の訪問地は秋田県の象潟である。
当時の象潟はその名が示す通り、東西1.5km、南北5km余に及ぶ広大な潟湖を有する地で、
潟湖には九十九島と呼ばれる大小の島々が浮び、松島とならび称される絶景の地でもあった。

「きさかたや雨に西施が合歓のはな」

芭蕉が詠んだ象潟の名句である。

その芭蕉からおよそ100年後に、江戸時代後期の名横綱雷田為右衛門が地方巡業で
象潟を訪れている。しかし
雷田が見た光景は、松島に必敵する絶景の潟湖が見るも無残な陸地と化した姿だった。
文化元年6月(1804年)の大震災で湖底が1.8Mも隆起していたという。

象浮は今日では町村合併で「にかほ市」となっているが、隆起した湖底は広々とした
田ンボになり、そのなかに点在する岩山がかつての絶景をしのばせている。






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